はじめに 七十歳の机から
今、七十歳になって、私はこの机に座っています。
これまでの仕事を通して、体と心の健康について感じてきたことを、一般の方にも分かりやすく伝えたい。そして、後輩の鍼灸師たちにも、何か残せたらと思っています。
社会的な責任、家庭の責任。果たしたと言い切れるかどうかは分かりませんが、何とかここまでやってきました。子どもたちも育ち、それぞれの道を歩んでいます。ようやく、自分がどう生きたいかを、自分のために考えられる年齢になった気がします。
これからの十年、私は何をしていくのか。
まずは、仕事です。私を必要としてくださる方がおられる限り、できるだけ続けたい。いい仕事をすることに徹したいと思っています。
そして、四十年の経験を、自分の中だけにしまっておかないことです。治療のこと、ヨガのこと、心の健康のこと。同時に話しながら、それぞれ一冊の本になるように、少しずつ書き残していきたいのです。
その出発点として、私がなぜ銀行員を辞め、治療の世界に入ったのか。そこからお話しします。
第一章 父の背中を見て、銀行員になった

二十二歳で大学を卒業し、私は四国銀行に入りました。父も銀行員でした。
私が小学校一年生ぐらいの頃には、父はすでに支店長になっていました。一緒に転勤したことを、今も覚えています。
父は話が上手で、愛情の深い人でした。家にもよく行員や部下を連れてきて、いろいろと話をしていました。幼い私は、父は学校の先生なのだろうかと思ったほどです。
仕事には一生懸命で、誠実でした。それでいて、人を育てるのが上手だった。私は、そんな父を尊敬していました。
父のような銀行員になりたい。
そう思って、父と同じ銀行に入ることができたのです。
入行してからは、誠実に仕事をすることと、自分の得意なことを生かすことを考えていました。私は、どちらかといえば外回りやセールスが好きでした。人に会い、お話をし、仕事につなげていく。そのことに夢中になりました。
実績を上げて、いつか父を越えてみたい。目指すのは重役でした。当時の私には、約三千人の行員の中で、十人ほどの立場を目指すという感覚がありました。
銀行員として働いたのは十年間です。その間、自分でも驚くほど仕事に熱中できました。支店でトップの成績を上げ、銀行全体でもトップセールスといえるほどの成果を出せた時期がありました。
仕事が面白く、成績を上げることもうれしかった。私は、その道を進んでいくつもりでした。
ところが、入行から三年半ほどたった頃、慢性膵炎と診断されたのです。
第二章 「お酒は、一生飲めません」

当時、私を診てくださったのは、私がとても信頼していた医師でした。
アルコールの摂取について説明され、飲んではいけないと言われました。
「先生、三か月ですか。まさか半年とか言わないでしょうね」
そんな気持ちで尋ねたのを覚えています。
返ってきたのは、一生、という言葉でした。
当時は、入院してもよいほどの重い状態だと説明されました。膵臓を大切に使い、飲酒をやめ、脂ものも避けるように言われたのです。
私は愕然としました。
これで、一生お酒が飲めないのか。
当時の私にとって、お酒は楽しみでもあり、人との付き合いの一部でもありました。行員同士の付き合いも、外でのお付き合いもある。その時間が楽しくて仕事をしていた面もあります。
そのお酒が飲めなくなる。銀行員として、これからどうやっていけばよいのだろう。病気そのもののつらさに加えて、そういう戸惑いがありました。
体も、しんどかったのです。
だるさが続き、下痢を繰り返し、ふらふらする。口の中が苦く、どうにもならないような不調がありました。
「慢性膵炎さえなかったら、どんなによかっただろう」
何度もそう思いました。どうしてこんな病気になってしまったのか。これさえなければ、と、病気を恨むような気持ちにもなったのです。
第三章 ヨガを教えている自分が、一番しんどかった

その頃、私はヨガを始めました。
最初は、自分の体を何とかしたいという思いでした。沖正弘先生の教えにも出会い、ヨガを日常の暮らしの中に取り入れるようになりました。
やがて、公民館でヨガを伝えるようになりました。初めは、ほんの数人です。
銀行員として外回りをしていると、いろいろな人に会います。健康の話になり、「ヨガをやっていますよ」と話すと、「どこでやっているの」と聞かれる。「公民館です」と答えると、そこへ来てくださるのです。
初めのやり取りは、だいたい決まっていました。
「ヨガ、いいんやってな。でも、私は体が硬いから」
「硬いから、いいんですよ」
そんなふうに声をかけていました。体の硬さを理由に諦めなくてもよいと、伝えたかったのです。
少しずつ人が増えて、二年ほどで会員は五百人ほどになりました。地元の元町長さんも来られるなど、地域のいろいろな方が集まってくださいました。一回に四十人ほど来られ、広い会場がいっぱいになることもありました。
銀行の行員や支店長も参加し、周囲の協力にも支えられて、会は盛んになっていきました。
しかし、教えている私自身は、まだ体がつらかったのです。
こんなにしんどい自分が、どうして一人で皆さんに教えているのだろう。そう思うこともありました。
それでも、教えることが、一番の勉強になりました。呼吸、姿勢、食事、休養、心の持ち方。人に伝えるために、自分でも学び、考え、実践する。教えることと学ぶことが、つながっていたのです。
当時は、自分の体をよくしたい一心で、体を整える方法を中心に伝えていました。
その中で、思うようになりました。
人の体や健康に関わることを、一生の仕事にできたら、どんなにいいだろう。
銀行の仕事も面白い。成績が上がれば、うれしい。でも、ヨガは、やっていること自体がうれしかったのです。
第四章 三十二歳、果てしない草原へ

三十歳ぐらいの頃から、私は本当にこのままでよいのだろうと考え始めました。
銀行では成績も上がっている。重役を目指している。けれども、自分が本当に進みたいのは、健康に関わる道なのではないか。
ただ、家庭があります。自分一人で決められることではありません。
妻に理解してもらうまでには、二年ほどかかりました。銀行を辞め、新しい道に進むことには、大きな不安があったのでしょう。
それでも最後には、一緒に進むことを受け入れてくれました。
「意志があるところに道はある」
妻がそう言ってくれた時、私と一緒に歩んでくれるのだと感じました。
三十二歳で、私は銀行を辞めました。
その時の感覚は、自由になったという喜びだけではありませんでした。守られていた場所から、果てしなく広い大地、広い草原へ放り出されたような感じです。
自分で出てきたのに、そう感じたのです。
どこの組織も、もう自分を守ってはくれない。これからは、自分でやっていかなければならない。とても孤独でした。
そばにいたのは、妻と、当時三歳ほどだった娘でした。
一方で、学校で学ぶ時間は楽しかった。社会人になってから勉強することが、こんなに面白いのかと思いました。
鍼灸の師にも出会いました。私にとって、これほど上手な先生はいないと思える師でした。そのもとで学び、修行を重ね、三十五歳での開業へ向かっていきました。
第五章 途方に暮れた時に鳴った電話

開業するには、お金が必要です。
銀行員時代、私は融資にも関わっていました。条件によっては難しい場合にも、制度を利用するなどして資金を考える仕事をしてきました。だから、自分の開業資金についても、何とか道があるのではないかと思っていました。
ところが、相談に行くと、断られました。
開業しようとしているのに、お金がない。そこで初めて、その現実が目の前に来たのです。
途方に暮れていた頃、四国銀行から電話がかかってきました。
電話の主は、四国銀行の頭取でした。新入行員だった頃、人事部長として出会い、私が信頼し、目標にもしていた方です。
私が伺っていたところでは、初めて叩き上げで頭取になられた方でした。
「そろそろお金がいるだろう。なんぼいるんな」
「二千万円です」
大阪支店へ行くように、話しておくからと、言ってくださいました。
本当にびっくりしました。うれしかった。私には、まさに鶴の一声のように感じられました。
その支えがあって、開業することができたのです。
開業してからは、たくさんの患者さんに恵まれました。ただ、患者さんが増えれば、経営が楽になるかというと、それだけではありません。
借入額は二千万円。返済では一年の据え置きがあり、五年で返しました。月に四十万円ほど返していたと記憶しています。治療所を運営しながら、そのお金を返していく。順調に仕事が伸びても、苦しさはありました。
経営とは、こんなに大変なものなのか。
勤めていた頃は、自分の仕事に一生懸命取り組めば、給料があり、賞与がありました。開業すると、治療に加えて、経理、スタッフのこと、これからの進め方まで、自分で考えなければいけません。
一人で仕事を始めることの難しさを、その時に知ったのです。
第六章 病気と闘うことから、一緒に生きることへ

ヨガを始めてからも、すぐに体が楽になったわけではありません。
五年ほどたっても、何をしても思うようにならないと感じていました。食事にも気をつけているのに、しんどさがある。その頃、私は「もう、この病気と同居していこう」と思うようになりました。
その気持ちに至るまでが、難しかったのです。
病気さえなければよいのに、と恨んでいた時には、一日の中で何度も病気のことを考えていました。体がだるい。しんどい。そのたびに、不安や恐怖が押し寄せます。
病気があることを、自分の毎日の敵にし続けない。食事、睡眠、適度な運動を整えながら、病気のある自分とも一緒に暮らしていく。私には、そういう心の変化がありました。
十年ほどたった頃、体が変わってきたことに気づきました。以前のような強いだるさや下痢などが、次第に気にならなくなっていったのです。
妻と、小さな居酒屋へ行ったことも覚えています。手頃な値段で楽しめるお店でした。そこで、以前は難しかった食事や飲み物が大丈夫だったと感じ、「これは奇跡ではないか」と思ったのです。
当時の私は、症状が出なかったことを回復の実感として受け止めました。ただ、症状がないことだけで、膵臓の状態や飲酒の安全性まで判断できるわけではありません。この経験を、慢性膵炎の方に飲酒の再開を勧める話として受け取らないでください。
また、ヨガだけによって病気が治ったと、ここで証明できるわけでもありません。私が伝えたいのは、長い不調の中で生活を整え、病気との付き合い方を変え、その中で体調の変化を感じていったという、自分の経験です。
この十年は、その後の治療家としての私にとって、大きな意味を持ちました。
慢性的な病気や痛みで、もうよくならないのではないかと悩む方が来られます。その苦しさ、不安、何とかしたいという気持ちに、以前より近づけるようになったのです。
私自身も、その中にいたからです。
「できることを一緒に考えていきましょう」
その言葉を、自分の経験を持って伝えられるようになったと思っています。
第七章 「症状は健康回復運動」という言葉

沖先生の教えの中に、私が「症状は健康回復運動」と受け止めてきた言葉があります。
初めは、意味が分かりませんでした。頭で説明を聞いても、心は納得していない。
健康なら症状は出ないではないか。よくなったら症状が消えるではないか。それなのに、なぜ症状が回復の働きなのか。そんなことがあるだろうかと思ったのです。
私にとって、この教えは、体をただ敵のように見ないための手がかりになりました。苦しい体も、何とか毎日を生きようとしている。その体に、恐怖や怒りだけを向け続けなくてもよいのではないかと、考えるようになったのです。
ただし、この言葉で、すべての症状を回復の証拠と決めることはできません。診察や治療が必要な症状を、そのままにしてよいという意味でもありません。
私は、この教えを、症状に圧倒されて自分の全部を見失わないための、心の支えとして受け止めています。
病気のことを考えずにいられない時に、体をどういたわるか。今日できることは何か。何を食べ、どう休み、誰と話し、何を楽しむか。
私の関心は、そうした毎日のほうへ、少しずつ向かうようになりました。
第八章 私にとってのヨガは、冥想へ向かうもの

四十年たった今、ヨガに対する私の考え方は、以前とは大きく変わっています。
体を動かすことにも、今も意味を感じています。それでも、何を一番大切なものとして受け取ったかといえば、冥想です。
私にとっての冥想は、頭の中を「空じる」ことです。
私たちの頭には、いろいろなものが詰まっています。情報、経験、感情、課題。「こうしなければならない」という思い。人からどう見られるか、世間は何と言うかという心配。
いつの間にか、自分の立ち回りや評価ばかりを考えていることもあります。
そうした、とらわれ、こだわり、引っかかりから、いったん離れてみる。
私は、それを自己解放と感じています。
習慣や癖、これまでの経験からできた思い込みを、一度、脇へ置いてみる。その時に、自分の本当の心の声を聴く。
私の言葉でいえば、魂との対話です。
自分は、本当は何をしたいのか。
何に喜びを感じるのか。
これから、どう生きたいのか。
周囲の評価に合わせる前に、自分の内側へ問いかけてみる。その声を大切にして、自分の生き方を選んでいく。
人生は、自分のページを重ねていくシナリオのようなものです。
そのシナリオは、自分で書いてよいのです。
第九章 すでに与えられているものに気づく

生まれた時から、私たちには空気があります。大地があり、水がある。空、海、川、森があります。
生きるための、この大きな環境が、すでにあるのです。
世界中の頭のよい人が集まって、どれほど時間をかけても、この自然そのものを、そっくり一から作ることはできないのではないでしょうか。
そう考えると、かけがえのないものが、すでに与えられていると感じます。
私がヨガから受け取った、「足るを知る」という感覚です。
ないものを求めるばかりでなく、すでにあるものに気づく。そのうえで、何をして生きていきたいのかを考える。
医師、教師、会社員、商売、音楽、芸術。人生には、いろいろな道があります。
もちろん、実際には、家庭やお金、体の状態など、選択を難しくする事情もあります。それでも、周りの目や自信のなさによって、自分で自分の可能性を狭めている場合もあると思うのです。
その思いをいったん脇に置き、自分の心に聞いてみる。すぐに大きく変えられなくても、自分が本当に望む方向を知っておく。
私にとって、ヨガの姿勢や呼吸、体を整える方法は、そうして心を静かに見つめるためにもあります。体を緩め、呼吸を整え、自分と向き合える状態をつくる。そこに、今の私が感じているヨガの大切さがあります。
第十章 リングの上で、力を抜くことを学ぶ

私は、五十九歳からボクシングを始め、五年間続けました。最後には試合にも出場しました。
もともと殴り合いが好きだったわけではありません。むしろ、そういうことは嫌いでした。それでも取り組んだのは、強い緊張と集中の中で、心と体をどう扱うかを学びたかったからです。
私が学んだヨガの行法の中には、強く集中した状態で、心身を緩めることを考えるものがありました。
穏やかな教室でリラックスすることと、本当に怖い場面で力を抜くことは、同じようにはいきません。
何百人もの人が見ている中、リングへ上がる。目の前には、初めて会う相手が立っている。その相手は、こちらへ向かってくる。
怖いのです。必死になります。
その時に、力を入れたままでは動けない。筋肉も、気持ちも、緩める必要がある。集中を保ちながら、余分な力を抜いていく。
私にとって、ボクシングは、そのことを体で学ぶ経験になりました。
第十一章 五十歳からのレスリングは、「技」との出会いだった

五十歳からは、レスリングを始めました。こちらには、別のきっかけがありました。
私には長女と長男の二人の子どもがいます。三歳からレスリングを始めたのは長男で、その指導をするために、自分もやってみようと思ったのです。
高校時代に柔道をやりたかったのに、できなかった。その思いも残っていました。
私は姉が二人いる三人きょうだいの末っ子で、育つ中で、戦うという経験がほとんどありませんでした。戦う自信も勇気もない。いざという時に立ち向かえる自分でありたいという気持ちも、当時はあったのです。
ただ、やはり相手を傷つけることには抵抗がありました。
その考えが変わったのは、館長の技を見た時です。大きな人も、小さな人も、すっと投げていく。
何だろう、これは。
私には、芸術に見えました。
戦いというより、技なのです。ただ力をぶつけるのではない。その技を身につけたいと思うようになり、練習への向き合い方が変わりました。
十二年ほど続け、六十二歳でコーチになりました。中学生を相手に、落ち着いて技を使えるようになった時には、自分なりの自信も得られました。
自分も、少しはうまくなったな。
若い頃にはできなかったことを、年齢を重ねてから学ぶ。そこにも、面白さがありました。
コロナ禍以降は、しばらく離れていました。今、また始めてみようかと思っています。これからは、今の自分の体と相談しながら、楽しめる形を考えたいのです。
第十二章 新幹線で通った、四年間の学び

開業して十年ほどたった頃、私は東京へ中医学を学びに通い始めました。
二週間に一度、土日を使って、四年間です。土日の講義は合わせて十時間ほどあり、新幹線の中でも勉強していました。
学んだことは、日々の臨床にとても役立ちました。目の前の症状を、その人の体や暮らしの中で考える。その見方が、少しずつ深まっていきました。
その学びの終わる頃だったでしょうか。郭義先生から、さらに大学院講座で学ばないかと電話をいただきました。
「どうして、私なんですか」
そう聞いたことを覚えています。
中医学を学ぶ臨床家を育て、日本の鍼灸の技術を高めたい。先生は、そのような趣旨を話してくださいました。
そこから、さらに四年間、学ぶ機会をいただきました。
治療の仕事を続けながら学ぶことは、楽なことばかりではありません。それでも、患者さんを診ているからこそ、学んだことの意味が分かる。学んだことを、また臨床で考える。
その往復が、私の治療をつくってきたのだと思います。
第十三章 「目次ができたら、本はできたのと一緒」

大学院講座で鍼灸治療学を教えてくださった郭義先生とのご縁から、本を書くことにもなりました。
当時、先生が所属されていた大学は天津中医学院といい、その後、天津中医薬大学という名前になりました。
先生が日本に滞在していた頃には、一緒に京都へ行ったり、お酒を飲みながら話したりしたこともあります。
ある時、花粉症の話になりました。
私が、花粉症で困っている方が多く、何とかしたいと話すと、先生は、それを本にしようと言ってくださいました。
私は、本を書くことなど考えたこともありませんでした。
先生は目次を、さっと書き出しました。
「目次ができたら、本はできたのと一緒だよ」
そんなふうに教えられました。そうやって作るのかと、私は目次づくりに加わりました。
先生が中国へ帰られてからは、次々とファクスが届きました。原稿です。
こんなにたくさん送ってくださるのか。すごいな。読ませてもらえるだけでもうれしい。
そう思っていたら、途中で、ぱたりと止まったのです。
あれ、どういうことだろう。全部書いてくださるのではなかったのか。
そこで初めて、分かったのです。
半分は先生が書く。残りの半分は、私が書く。
目次の途中から先は、自分の担当だったのです。
そこからは必死でした。自分の原稿を書き、全体を読める日本語に整え、源草社からの出版へつなげていきました。
こうして『中医学による花粉症治療』、そして『中医学による頭痛治療』を出版する機会に恵まれました。本をどう作るのか、学会でどう発表するのか。そうしたことを学ぶ機会にもなりました。
もともと、私は文章を書くことが好きではありませんでした。苦手で、できれば避けたかった。それでも、こうした経験のおかげで、思っていることを文章にする道が、少しずつ開けてきたのです。
今、また書こうとしているのも、その続きなのだと思います。
第十四章 息苦しさの先に、また出かけられる暮らしを

長い不調の中で、暮らしを取り戻していった患者さんもおられます。
皮膚筋炎で大阪大学に半年ほど入院し、命は助かったものの、退院後も息苦しさや疲れやすさが続いていた方です。当院に来られたのは、退院から二年ほどたった頃でした。
以前は、買い物に出かけ、喫茶店へ行き、友人と会って話すことを楽しんでおられました。
ところが、退院後は、買い物に出るだけで精いっぱい。昼間にも横になって休まなければならない。
なぜ、こんなに苦しいのだろう。このまま戻らないのだろうか。普通の生活がしたい。
人と話している途中に苦しくなったらどうしようという不安もあり、交際や外出を控えるようになっていたそうです。
私は、その方の疲労や体の状態を見ながら、体全体を整えることを考えて施術しました。それとともに、無理なく体を動かすことにも取り組んでいただきました。
仰向けでの足上げや、声に出して数える動きなど、その方に合わせて、十回程度の少ない回数から始めました。「今日は何回できましたか」と確かめながら、長い時間をかけて続けていったのです。
これは、当時の一人の方への対応の記録です。息苦しさの原因や体の状態によって必要な対応は異なり、この運動や回数を、そのまま誰にでも勧めるものではありません。
変化は、すぐに全部が現れたわけではありません。一年ほどたっても、まだ苦しいと話されることがありました。
それでも、やがて、少しずつ出かけられる場所が増えていきました。
喫茶店へ行ってきた。あのお店にも行けた。友人に会った。花を見に行った。
今度は、その方が私に、おすすめの場所を教えてくださるようになったのです。
「花がきれいですから、ぜひ行ってみてください」
「あそこの喫茶店、とてもいいですよ」
以前は、外へ出ることを不安に思っていた方が、そんなふうに話してくださる。うれしかったですね。
今は、年に一度の私のコンサートにも来てくださっています。
命を支えた現代医療があり、その後の経過があり、ご本人の意欲と努力がありました。私の関わりだけで説明できることではありません。
私は、その暮らしを取り戻す過程を、お手伝いさせてもらった。そのことが、とてもうれしいのです。
こうした経験は、ほかにもあります。これから、一つずつお話ししていきたいと思います。
第十五章 仕事があることを、ありがたく思う

七十歳からの生き方を考える時、私にとって、仕事は大きな柱です。
続けてきたこの仕事を、これからも続けられる。それだけでも、ありがたいことだと思います。
自分を必要としてくださる人がいる。仕事をさせてもらい、そのお金で生活ができる。そのうえで、「ありがとうございます」と言っていただける。
こんなにありがたい仕事は、なかなかありません。
もちろん、いつまでも同じようにできるとは限らないでしょう。それでも、できる限り、いい仕事をすることに徹したい。毎日、そう思っています。
後輩やスタッフを育ててきた時期もありましたが、私は長く、自分で治療することに専念してきました。その中でつくってきた見方や技術を、これからは文章でも残したいのです。
私が通う音楽の教室には、多くの生徒さんや先生方を育て、活動を応援している方がいます。そういう形で人を育てる生き方もある。
私は私の形で、臨床で得たことを残す。それが、これからできる仕事の一つなのだと思っています。
第十六章 音楽、妻、友人。先送りしない楽しみ

六十代から始めた音楽も、これから続けていきたいことです。
音楽には、感動があります。聴いて感動する。そして、自分で奏でると、また違う感動があります。
弾くために練習する。歌うために練習する。できなかったところが、少しできるようになる。その時間が、私の心と体に張り合いを与えてくれます。
私は、そういう活動が、自分の若々しさや健康を支える楽しみになっていると感じています。
そして、妻との暮らしです。
一緒に歩んできたパートナーを大切にして、これからも一緒にいろいろなことをして、思い出をつくりたいと思っています。
友人との付き合いも、見直したいのです。
忙しさにかまけて、「また会おうな」と言ったままになっていたことがあります。「泊まりに来いよ」と誘われても、「またな」と答えて、そのままにしていました。
でも、この年齢になると、今会わなければ、次に会えるとは限らないことに気づきます。
元気なうちが花です。
これから開くコンサートが終わったら、友人に会いに行き、泊めてもらおうと思っています。会いたい人には、会えるうちに会う。そういう時間を、これからは大切にしたいのです。
第十七章 お金も、楽しむために使いたい

将来が心配だからと、ただ貯め続けようと思えば、きりがありません。
自分は、どんな暮らしをしたいのか。その暮らしに、どのくらい必要なのか。そこから考えてみたいと思っています。
私のいう「使い切る」という気持ちは、今あるお金を、考えずに全部使ってしまうという意味ではありません。
これからの生活を考え、持っているお金や収入の範囲の中で、自分にとって大事なことにも使っていく。無駄はせず、楽しみにまで遠慮しすぎない、ということです。
必要なものを買う。夫婦で出かける。友人に会う。音楽を楽しむ。
人から見て豊かかどうかより、自分が楽しめる暮らしかどうかを大切にしたいのです。
心配だけで毎日を埋めるのではなく、自分たちにできる楽しみを、実際の暮らしにしていく。今は、そのように考えています。
おわりに これからも、自分のページを書いていく

銀行員として、父の背中を追っていた私がいました。病気に戸惑い、ヨガに出会い、治療の仕事へ進んだ私がいます。
三十二歳で、広い草原へ放り出されたような孤独を感じたこともありました。支えてくれた人がいて、学ばせてくださった師がいて、来てくださる患者さんがいました。
自分一人で、ここまで来たのではありません。
その経験を持って、七十歳からの自分のページを、また書いていきたいと思っています。
いい仕事をする。
妻と、これからの時間を楽しむ。
音楽を続ける。
友人に会う。
体と相談しながら、新しいことにも取り組む。
そして、経験を言葉にして残す。
自分の心の声を聴き、自分らしく生きる。
人生のシナリオは、自分で書いていい。
これから、そのことも含めて、体の健康、ヨガ、心の健康について、一つずつお話ししていきます。
※効果や感じ方は人によって異なります

























